Leading Project for Biosimulation > Cell/Biodynamics Simulation > simBio
 

序にかえて

はじめに

心臓は血液を全身に循環させるポンプの役割を果たしています。 ヒトの心臓は単純に言うと、握り拳大の筋肉でできた袋であり、 心電図に記録される電気信号が伝わることで心筋細胞が興奮し、 収縮して血液を送り出します。

この本は、これまでこのように散文的に表現されてきた心筋細胞の働きを コンピュータでシミュレートして目に見える形にする方法を解説します。

自分でモデルを動かすことで、 心筋細胞の働きを学び、 生の細胞を使った実験結果を解釈し、 そこに潜むメカニズムを推定する大きな助けとなるでしょう。 すなわち、情報学・工学的な手法を使って、生体機能を解析することにつながります。

さらに、心筋細胞ばかりでなく、複雑な生体の振る舞いをコンピュータ上に再現し、 システムとして理解していく手がかりを掴んで頂ければ幸いです。

背景

今やコンピュータは生物学研究にとって必要不可欠な道具となっています。 これに伴い、これまでの分割的な研究手法、すなわち生体を、 それを構成する部品に可能な限り細分化し、 部品毎に機能を調べる手法が質的に転換しつつあります。 まず、ゲノムが、遺伝子情報を高速に読み取ることでデータベース化され、 それを解析し意味を抽出する手段として、バイオインフォマティクスが発展を遂げました。

次いで、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームといった形で、 生命情報は網羅的に解析され、データベース化されつつあります。 さらに、それらのデータベースから生物学的な意味を見いだす解析手法として、 蛋白分子構造シミュレーション、システムズバイオロジーなどが登場しています。

医学、生理学の分野では、生体の形態・機能を網羅的に解析するフィジオームという概念が提唱されていますが、 個々の機能要素を相関系として捉え、生命体全体として理解するためには、 医学システムズバイオロジーともいうべき手法が欠かせません Noble, 2002。 これまでは、医学研究における成果を個人の頭の中で統合し、 言わばメンタルモデルを作成することで生体の振る舞いを理解してきましたが、 研究成果の蓄積が進むにつれ、精緻なモデルとして個人が理解できる対象はますます限定されつつあります。

これに対し、生体機能要素の相関系を数式として表現し、 生体の振る舞いをコンピュータ上に再現することで、 より網羅的かつ普遍的な理解を得ることが期待できます。 我々は生体機能をコンピュータ上に再現し、医学研究及び創薬等に有用な手法とすることを目標として、 医学・薬学・工学・情報学研究科を中心に、製薬企業とも共同で 「細胞・生体機能シミュレーションプロジェクト」 野間ほか, 2005 を開始しています。

研究者にとって専門分野外の知識は少なく、概念にも馴染みがありません。 生体のシミュレーションをするためには、生物の知識や、生体標本を用いた実験だけでなく、 コンピュータシミュレーションの手法、何にシミュレーションが貢献できるかといったことについても理解する必要があります。 そこで、プロジェクトでは異分野の研究者が共同で作業する場として 「細胞・生体機能シミュレータ開発センター」 を設け、相互理解を促しています。

現時点でも生体の振る舞いに関する莫大な実験データが既に蓄積されています。 今後も様々な機能が解明されるに伴い、数理モデルも発展するでしょう。 そこでプロジェクトでは、 新たな機能モデルを個別に開発し、 それらを統合して生体モデルを共同開発するためのシミュレータとして、 JavaとXMLを使ったsimBioというソフトを開発しています 皿井ほか, 2004, Sarai et al, 2006

プロジェクトではsimBioを利用して、新たな機能要素をモデル化することで、心筋細胞モデルをさらに精緻化・包括化しています。 そして、モデルを実験結果の解釈に利用し、そこから新たな実験仮説を導き出して、さらなる実験を行うといったモデル駆動型研究も進めています。 また、プロジェクト参加企業と、限られた実験結果から心臓に与える影響を外挿するためのツールとしてモデルを活用する共同研究を開始しました。

この本では、simBioを使ってモルモット心筋細胞モデル(京都モデル)を作成し、 実行し、改良し、振る舞いを解析する方法について解説します 皿井ほか, 2005, 松岡ほか, 2005, Matsuokaほか, 2003 。 本書が心臓生理現象のコンピュータシミュレーションを手がけようとする読書の参考となれば幸いです。

参考文献

  1. Noble D. Modeling the heart-from genes to cells to the whole organ. Science 295: 1678-1682, 2002.
  2. 野間昭典、松岡 達、皿井伸明. システムバイオロジーの応用~数理時空間に心筋細胞活動を実現する. バイオテクノロジージャーナル, 5(1): 53-60, 2005.
  3. 皿井 伸明、天野 晃、松岡 達、松田 哲也、野間 昭典. 生物学的視点に基づくオブジェクト指向生体機能シミュレーション. シミュレーション 23(1): 4-13, 2004. PDF (738 kb)
  4. Sarai N, Matsuoka S, and Noma A. simBio: a Java package for the development of detailed cell models Progs Biophys Mol Biol 90: 360-377, 2006
  5. 皿井 伸明、松岡 達、野間 昭典. 包括的心筋細胞モデル(京都モデル). 血管医学 6(6): 93-103, 2005.
  6. 松岡 達、皿井 伸明、城 日加里、野間 昭典. 活動電位のシミュレーション(Kyoto model). 心臓 37(6): 486-493, 2005
  7. Matsuoka S, Sarai N, Kuratomi S, Ono K, and Noma A. Role of individual ionic current systems in ventricular cells hypothesized by a model study. Jpn J Physiol 53: 105-123, 2003.
  8. Hodgkin AL, and Huxley AF. A quantitative description of membrane current and its application to conduction and excitation in nerve. J Physiol 117: 500-544, 1952.
  9. Kuratomi S, Matsuoka S, Sarai N, Powell T, and Noma A. Involvement of Ca2+ buffering and Na+/Ca2+ exchange in the positive staircase of contraction in guinea-pig ventricular myocytes. Pflugers Arch 446: 347-355, 2003.
  10. Hund TJ, Kucera JP, Otani NF, and Rudy Y. Ionic charge conservation and long-term steady state in the Luo-Rudy dynamic cell model. Biophys J 81: 3324-3331, 2001.
  11. Matsuoka S, Sarai N, Jo H, and Noma A. Simulation of ATP metabolism in cardiac excitation–contraction coupling. Progs Biophys Mol Biol 85: 279-299, 2004.
  12. Korzeniewski B, and Zoladz JA. A model of oxidative phosphorylation in mammalian skeletal muscle. Biophys Chem 92: 17-34, 2001.
  13. Faber GM, and Rudy Y. Action potential and contractility changes in [Na+]i overloaded cardiac myocytes: A simulation study. Biophys J 78: 2392-2404, 2000.
  14. Negroni JA, and Lascano EC. A cardiac muscle model relating sarcomere dynamics to calcium kinetics. J Mol Cell Cardiol 28: 915-929, 1996.